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キュノスケファライの戦い(英:Battle of Cynoscephalae)は第二次マケドニア戦争において紀元前197年にテッサリアのキュノスケファライにてティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス率いるローマ軍と、ピリッポス5世率いるマケドニア軍との間で起こった会戦である。 == 背景 == 紀元前198年に30歳にもならない若さでローマの執政官となったティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスは紀元前200年より続いていたマケドニアとの戦争へと司令官として赴いた。彼の先任者のプブリウス・スルピキウス・ガルバおよびプブリウス・ヴィリウス・タプルスの戦いが消極的であったことから自らはそうなるまいと決意し、兄弟のリュクスを艦隊司令官にして共同作戦を取らせ、且つ第二次ポエニ戦争においてヒスパニアで大スキピオの下でハスドルバルを破った部隊から3000人の精鋭を選び、遠征軍に組み込んだ〔プルタルコス, 「フラミニヌス伝」, 3〕。 エピロス入りしたフラミニヌスは早速アプソス川近くの隘路に拠っていたピリッポス5世率いるマケドニア軍を破った。敗れたマケドニア軍はテッサリアへと逃げ、追ってきた敵に何も残さないように都市の住民を山地に立ち退かせた後、火を放った。一方フラミニヌスは兵士に対して、自国や保護を託された国の国土を通る場合のように行動せよと命じ、これを守らせた。このため、テッサリアの都市の多くはローマ軍に城門を開いて同盟を結び、アカイア人はマケドニア側からローマ側に寝返った〔ibid, 5〕。 その後、ピリッポスから講和の打診がフラミニヌスの許へ来たが、フラミニヌスが示したギリシア人の自治を認め、駐屯軍を撤退させよという条件をピリッポスが拒否したため、実現されなかった〔ibid, 5〕。その後、フラミニヌスはボイオティアへと軍を進め、ボイオティアを味方につけた。続いてピリッポスはローマ本国へと講和を求める使者を送り、フラミニヌスも代理人を送って抗弁させたためまたしても、ピリッポスの目論みは失敗した〔ibid, 7〕。この結果を知るやフラミニヌスは決戦の準備をし、26000人の軍をテッサリアに進め、後に、アイトリアからの歩兵6000人、騎兵400騎が合流し、計32400人となった。対するピリッポスの兵力は25500人、うち2000人が騎兵だった。そして、両軍はスコトゥサ近くで対陣した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キュノスケファライの戦い (紀元前197年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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